すずめの戸締まりにおける呪い
冒頭で猫に言った「うちの子になる?」これも呪い。
かつて、孤児になったときに環さんに言われた「うちの子になりなさい」と組み合わせである。
後の方で環さんに心配されていることを「重い」と言い放つ。これも呪い。
かつて、母親を失ったときに「お母さんが探してる、私がいなくなって心配してると思うので」というセリフと組み合わせである。
今作は呪いによって構成されている。
「こんなきれいな場所だったんだ」
「きれい?ここが?」
認識の違いがこんなに苦しい。
芹澤が選曲している懐メロも、ある種、観客にとっての呪いである。
「ルージュの伝言」は魔女の宅急便を連想させられ、少女が大人に向かう物語としてメタである。
「行ってきます」これも呪いであるか。「ただいま」もしくは「おかえりなさい」との組み合わせである。この組み合わせが崩れてしまったのが、災害。
各地にある廃墟。これらも呪い。災害で失われたものとは限らないのが本当に呪わしい。不景気、災害、ウイルス。これらをきっちりお返ししていただかないと、我々の大切な場所も人も失われてしまう。
もう少し、わかりやすく書いてみる。
新海誠は、今回も、ドラマツルギー的な「安定の脚本術」を避けたようだ。ロジック的構築でシナリオを組み立てたように思う。
そのロジックの一部が、呪いなのだ。
呪いが組み合わせとなっていて、それらが揃うときに視聴者に意識させてくる。いわゆるフラグとか伏線とは違い、原因と結果のような組み合わせになっていない。
物語終盤で、ある種の輪廻、ループのようなものであることも、起承転結のような切り分けできないものとなっている。これが冒頭の歯切れの悪さとも言えるのだが。
ともかく、今回は、従来の脚本とは違ったモノづくりに向かった実験的要素が多い映画だ。